『ミスティック・リバー』に関する乱雑なメモ その2

昨日の日記へのコメントを受けつつ。
本日も■■■ネタバレ注意!■■■

・デイブが被った誤解が「ただの偶然」にすぎなかったこと、についてはわたしはあまり気にしていない。「現実って不幸な偶然に満ちているものだ」などと思っているから。が、作り手の矜持の問題として、物語の展開を「偶然」に頼ることはただの怠慢でしかないのだろう。

・ラストの解釈はあれで良かったようだ、というところに落ちついた。でもそれは、あまりにもとってつけたようなシロモノだったという印象が拭えない。それはショーンという人物の内実がほとんど感じられなかったせいだ。わたしには、ショーンというキャラクターは謎を解き進めるための駒でしかなかったように思える。ショーンはなぜデイブを「友達ではない」と言い切ってしまうのか。ショーンにとって(そしてジミーにとっても)結局デイブはフリークでありモンスターでしかなかったということなのか。さっきまで一緒に遊んでいた友達が突然連れ去られて、それっきりもう二度と手の届かないところへ行ってしまう。彼の肉体は帰って来ても、彼の心はもう決して「ぼくたちのいるここ」へは帰っては来ない。そうして二人と一人は深い深い亀裂のこちら側とあちら側とに引き裂かれる…ということは、充分に想像できる、想像はできるが、この映画が「それ」を語ってくれたわけではない。ジミーとデイブというキャラクターからはまだしもその気配が漂ってきていたように思うが、ショーンというキャラクターにそれは感じられなかった。大体、ショーンはなぜ警察官になったのか。ショーンの妻はなぜ出ていったのか。わからないことばかりだ。

・だからショーンと妻との和解が(しかもあんなタイミングで)やってきても鼻白むばかりだし、最初はあの「銃で撃つポーズ」もなんのことだかさっぱりわからなかった。帰りの電車の中でいろいろ考えているうちに「もしかしてあれは…」と気付いた。(それはわたしの側の問題かもしれないけれど…)でも、それも仕方がない(と強弁したくなる)ほどに淡白な男二人のアイコンタクトだった。と、やっぱり思う。セレステとアナベス、それぞれの視線の不穏さと緊迫、と比べてみても。(わたしはそのシーンを観ながら心の中でこんなことをつぶやいていた。「おまえだけなんやお幸せそうで。結構なことですなあ。」)

眠くてたまらないので今日はここまで…